大阪高等裁判所 昭和50年(く)29号 決定
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【説明】
再審請求人は、昭和四三年一二月二四日大阪地裁岸和田支部において業務上過失致死傷罪により禁錮一年、三年間執行猶予の判決の言渡を受け、この判決は自然確定した。認定事実の概要は、自動車の運転者としては自動車運転中指定制限速度を遵守するとともに確実にハンドル操作を為し、もつて危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、現場道路の指定最高制限速度である五〇キロメートルを超える時速約八〇キロメートルの高速度で疾走し、これに伴うハンドル操作を誤つた過失により、自車をしてその安定を失して蛇行せしめたすえ、操縦の自由を失い、横転滑走せしめ、その衝撃により同乗者二名に傷害を負わせ、一名を死亡させた、というものである。
請求人は、本件事故は初期ホンダN三六〇型軽四輪車の高速走行時における操縦安定性の顕著な不足という本質的欠陥に基づくものであつたとして再審を請求し、原審で棄却されたため抗告に及んだのである。なお、本棄却決定に関する特別抗告に対し、最高裁昭和五五(し)一五号同55.4.30一小決は、棄却決定を下した。
【判旨】
抗告趣意二(事実誤認の主張)について
論旨は、要するに、松田意見書を信用せず、小口泰平の鑑定書及び証言、検察官の回答書(亘理厚作成の鑑定書を要約したもの)を信用してホンダN三六〇の操縦性、安定性の欠陥性を否定した原決定には重大なる事実の誤認がある。というのである。
そこで、まず松田意見書について検討するのに、作成者松田文雄は自動車工学評論家であり、同意見書によれば、その目的とするところは、「初期におけるホンダN三六〇の高速域における安定性能について、理論的・批判的な一般的考察を加えることにある」とするが、「考察の基礎として用いられた諸データーは、主として本田技研工業株式会社によつて、公式・非公式に開示された諸数値および自動車専門誌等に発表された専門家の意見又は実験数値等によつたものであり、特定の事故車の分解検査などは行なわなかつた。」というのであり、同意見書は、「初期のホンダN三六〇は、低・中速域における操縦性・安定性については、格別の問題を生じない。しかし、時速八〇粁以上の高速域においては、平均的運転者にとつて、安定性能の悪い危険な車になりやすい、という本質的な欠陥をもつていることについては専門家の間で以前から問題にされていた。それは一言にしていえば、設計上、高速域での直線走行(曲線走行は言うまでもない)に適しない構造・機能をもつた車であることを意味し、具体的には次のような危険の誘発可能性を指す。たとえば、一見何の変哲もない平坦な路面での高速直線走行において、僅かな外乱(車の期待される正常運動を妨げるメカニズム外因的な非定常な力の作用、例えば路面のしわ、うねり、継目、マンホールのふた、横風のあおり、積荷の片寄り、塔乗者の身うごき等による車の動揺)や車線の乗移り、増減速、パワーオフ、あるいはカーブなどにおけるハンドル・ブレーキのやや過剰ないし急激な操作、などに由来する僅かな非定常な動きによつても、運転者に不安を感じさせないような(又はハンドル操作、修正動作を遅らせたり、ドライバーの意志に無関係な舵角を与えさせるなど、操縦の自在性を拘束するような)車体の非定常な運動を誘発しやすい。このような車体の非定常運動の典型的なものは、ローリング(車体の立体的な左右の横揺れ)、尻振り、横すべり、ヨーイング(車体の水平面における左右前後の揺れ)およびこれらの結合作用としての蛇行(周期性動揺)などである。なお、これらの異常現象は、重点移動の関係上、積載重量の過大(四人乗り、重量物積載)や下り坂などにおいてとくに生じ易い。」とし、「N三六〇の高速域における致命的欠陥は、一たん、前記のような非定常な運動(動揺)が開始された場合における、運動(動揺)の定常化ないし収斂性が、他の車種(ことに優秀な外国車等)に比べて著しく劣つている点にある。」と述べ、右のようなN三六〇の欠陥は、いかなる設計上の欠点に由来するものであるかについて、「自動車工学のこの領域は、比較的未開発の分野に属し、一義的に明白な解答を与えることはむずかしい。しかし、力学的諸法則の適用および実験的データーの応用によつて、次のような不安定性の諸要因を導き出すことはできる。」として、(一)前方動力・前輪駆動方式(いわゆるF・F方式)の欠陥、(二)ロール剛性の不足(とくにバネ常数の低さと懸架方式の不適切)、(三)手放し方向安定試験における収斂不良性、(四)ステアリング剛性の不足、(五)軽自動車に対する車両サイズの法的制約、(六)車体寸法および安定性能にふさわしくない高い動力性能の六点を指摘し、これらの諸点について「設計上の改善がなされない限り、N三六〇は高速域での安定性を著しく欠いた欠陥車と見られてもいたし方あるまい。」と結論づけている。
しかし、右松田意見書は、その記載自体からも明らかなとおり、実験や検査などによつて判明した客観的事実を積み重ね、それを自動車工学の見地から総合的に検討して結論を出したものではなく、初期のホンダN三六〇には時速八〇キロメートル以上の高速走行時において著しく操縦性・安定性を欠くという本質的欠陥があることは「専門家の間では以前から問題にされていた」ということを当然の前提としたうえ、その「欠陥は、いかなる設計上の欠点に由来するものであ」るかを考察し、前示のとおり(一)ないし(六)の要因が考えられるとするものであり、しかも、その要因の検討においてもN三六〇の車両特性に運転者の操舵、心理的要素を混在させるなど科学性と論理性に欠けるところがあり、自動車工学の専門的見地からの批判を免れず、鑑定的意見としては信用性の乏しいものである。松田意見書をもつてN三六〇が欠陥であると認定することはできない。
かえつて、原審及び別件(東京地裁八王子支部被告人子安邦夫に対する業務上過失致死傷被告事件)における鑑定人小口泰平作成の各鑑定書、原審における証人小口泰平の尋問調書、右別件における第七回公判調書中の証人小口泰平の供述部分(写)別件(東京地裁被告人安倍治夫外一名に対する恐喝被告事件)における第三三回公判調書中の鑑定証人小口泰平の供述部分(写)、更に弁護人の所論にかんがみ当審において取調べた亘理厚作成の東京地方検察庁に対する「鑑定嘱託書に対する回答」(鑑定補充説明書を含む。―以下一括して亘理鑑定書という)及び別件(東京高裁被告人子安邦夫に対する業務上過失致死傷被告事件)における第八回公判調書中の証人亘理厚の供述部分によれば、各種実験等の結果、初期におけるホンダN三六〇は、他種軽四輪車に比べて、(イ)ロール率が大きいこと、(ロ)パワーオフしたときの車両の巻き込みが大きいこと、(ハ)ヨーイングの減衰が不足のため、特に高速域で収束しにくいこと(以上の諸点は松田意見書でも指摘されていたところである)、その他が指摘されているが、これらはN三六〇の性能、特性を表わすものにすぎず、これをもつて操縦性・安定性を阻害し、事故発生の危険性を内包した欠陥車ということはできないことが認められる。すなわち、右(イ)について、一般乗用車の平均的ロール率が五度位であることからするとN三六〇のロール率が約七度であるのは大きい方であるが、亘理鑑定書によると一概にロール率が小さい程良いとか七度は大きすぎるとかいうことはできないのであつて、ロール率の一、二度の差は操安性上問題とするに足らないし、事故発生への危険を内包するということにもならない、というのであり、次に、(ロ)について、N三六〇はパワーオフした時の車両の巻き込みが大きい方であるが、亘理鑑定書によれば、これは一般の範囲内にあり、他車にも同程度のものが存在するのであつて、巻き込みの大小が操安上の問題となるようなことはない、というのであり、更に、(ハ)について、手放方向安定性実験によれば、N三六〇はヨーイングの減衰が不足のため、特に時速八〇キロメートル以上の高速域で収束しにくいのであるが、これはあくまでハンドルから手を放した状態での実験結果によるものであつて、小口泰平の鑑定証言によれば、それは他車との比較において問題とならない程度のものである、というのであり、亘理鑑定書によれば、これをもつて実際走行における操安性の良否をうんぬんするのは誤りである。けだし、実際走行ではハンドルから手を放したままにしておくことはありえず、ハンドルを握つてさえおればヨーイングは発生しないし、人為的に発生させた場合でもハンドルを軽く保舵することにより直ちに収まるものだからである、というのであり、更に亘理鑑定書は、要するに、以上の諸点はN三六〇の車両の性能、特性を表わすものにすぎず、これをもつて操縦性・安定性を阻害し、事故発生の危険性を内包しているものということはできないし、また、各種実験を通してみても、運転者の意に反して舵行するといつた異常な挙動ないしその徴候と考えられる現象は一切現われなかつたと述べ、操安性良否の測定基準といつたものは世界的にも存在するものではなく、操安性の問題はドライバーという人間特性との関係において評価されるものであつて、これを切り離した車自体の性能、特性のみをもつて断ずることはできないといい、N三六〇が軽四輪車の中にあつて特に操安性に問題があり、安全性に欠ける車であると理解するのは間違いであり、他車との比較においても、平均値的なところにあると結論づけている。これらの見解には合理性があり信用することができる。
次に、所論にかんがみ松田意見書以外に弁護人が提出した証拠についてみると、(2)申立人道済信幸作成の上申書、(3)別件(東京地裁八王子支部被告人子安邦夫に対する業務上過失致死傷被告事件)における証人道済信幸に対する証人尋問調書(写)、(4)右別件における証人戸川安喜に対する証人尋問調書(写)、(5)右別件における証人中野信行に対する証人尋問調書(写)は、いずれもホンダN三六〇を運転して転倒事故を起した体験を述べるものであるが、もとよりそれらが直ちにN三六〇の欠陥性や申立人の運転上の無過失を証明するものではないし、(6)週刊朝日(昭和四四年一二月五日発行)抜すい、(7)雑誌「新評」(昭和四五年一一月号)抜すいは、いずれも評論の域を出ないものであり、(8)雑誌「モーターフアン」(一九六七年六月号)抜すい、(9)同誌(一九七〇年三月号)抜すいは、小口鑑定、亘理鑑定以上に科学性があるとは認められず、(10)雑誌「ホイッチ」(一九六九年一月号)は、N三六〇が欠陥車であるとまでは断定しているものではないし、(11)N・LN三六〇〓サービス作業要領(写)、(12)N三六〇・LN三六〇車体異音修理マニュアル(写)、(13)N三六〇・LN三六〇エンジン修理マニアル(写)は、N三六〇・LN三六〇についてメーカーが安全上問題となる個所があることを認めて修理したことを示すものであるが、これをもつて直ちにN三六〇が欠陥車であると認めることはできないし、(14)林善三作成の「ホンダN三六〇事故分析表(事故報告票三〇葉添付)、(15)林善三写作成ホンダN三六〇全国被害者同盟名簿抜すい(写)は、いずれもN三六〇の事故に関する報告であるが、検証等によつて確認された正確な資料かどうか疑問であり、(16)前示別件における鑑定人小口泰平作成の鑑定書は、N三六〇が欠陥車であるといつているものでないことは前示のとおりであり、以上の各証拠を総合しても、申立人には時速八〇キロメートルの高速運転に即しハンドル操作をしなかつた過失があるとした確定判決の事実認定に合理的疑いをいだかせ、その認定を覆えすに足りる蓋然性があるとは認められない。
そうすると、原決定が松田意見書等を信用せず、小口鑑定等前示証拠を信用してN三六〇の欠陥性を否定し、弁護人の提出した証拠はすべて刑事訴訟法四三五条六号にいわゆる無罪を言渡すべき「明らかな証拠」であるとはいえないとして、再審請求を棄却した判断に誤りはない。論旨は理由がない。
(児島武雄 香城敏磨 角田進)